松代町に移り住んでみませんか?

長野市の南部に位置する松代町は、真田十万石の城下町として知られる歴史深い町です。四方を山や千曲川に囲まれ、遠くには北アルプスや北信五岳を望みます。
善光寺、戸隠、白馬、志賀高原、軽井沢方面への交通アクセスが良好で、観光にアルプス登山にウィンタースポーツに、楽しみ方はあなた次第です。

また、趣味や特技を活かして「半農×半X」での就農や、空き家・空き店舗を利活用して思い切って起業してみるのはいかがでしょうか?

ここでは、松代への移住・定住を検討される方に、暮らしのことや地域のことなど、事前に知っておいていただきたい情報を掲載しています。

松代町ってどんなところ?

松代町は長野市南部に位置し、北を千曲川、南を急峻な山々に囲まれた範囲に集落が営まれています。
古代から近代まで、さまざまな時代の歴史文化遺産が集積しています。古くは5世紀から8世紀頃に築造された古墳群が残り、戦国時代には川中島の戦いの舞台にもなりました。
江戸時代には松代藩が置かれ、真田十万石の城下町として栄えました。
松代町は昭和41年(1966年)に長野市へと合併されました。平成5年(1993年)には上信越自動車道長野インターが誘致されました。
古くからの歴史的建築物の色濃く残る町に、温泉、総合病院、インターチェンジ、田畑あり。
松代町は、街あり、山ありの「ちょうどいい便利は田舎」です。

松代町の歴史いろいろ

◆古代の歴史
⽔も緑も豊富な松代には、古くから⼈が暮らしていました。⼤室や東条には古墳群が点在しています。特に5世紀から8世紀にかけて築造された「大室古墳群」には、約500基もの古墳が点在しています。また松代町周辺にはかつて「英多荘(あがたしょう)」と呼ばれる近衛家の荘園があり、鎌倉時代(12世紀後半)にはすでに町が存在していました。「東条」「⻄条」といった地名は、荘園時代の名残として今⽇に伝わっています。

◆戦国~江戸時代
戦国時代、松代町は川中島合戦の舞台となりました。武⽥信⽞が上杉謙信との戦いに備え、⼭本勘助に海津城(現在の松代城)の縄張り(城の基礎設計)をさせたといわれます。その後、武⽥-織⽥-上杉-豊⾂-徳川と⽀配者が変わりましたが、徳川家康が天下を取った江⼾時代、上⽥から松代に移封された真⽥信之が松代城を中⼼に本格的な都市計画を⾏い、今⽇の松代の基礎を築きました。松代城は「⽇本の名城100選」に指定されています。

◆幕末~近代
幕末には松代藩出⾝の佐久間象⼭が尊王開国を唱え、新しい時代の先駆けとなりました。明治時代から⼤正時代にかけ、松代町清野出⾝の松井須磨⼦が⽇本初の本格的な近代舞台⼥優として活躍。太平洋戦争末期には⼤本営を移設するために、松代周辺の⼭に地下壕が掘られました。

◆養蚕・製糸の歴史
明治7年、廃藩に伴い士族同士により製糸工場六工社が創設されるとともに、養蚕、製糸が盛んになり「製糸の町松代」として繁栄と活気をもたらされました。

◆あんずの歴史
江戸時代初期に宇和島藩主のお姫様が松代藩主に嫁ぐ時、あんずの種を持参しました。同藩が奨励し、各村にその苗木が植えられ、医療品としてあんずの種の杏仁(あんにん)が使われたり、杏干(あんずぼし)の加工食品が作られ、栽培が広まりました。
しかし、明治以降、養蚕業が盛んになり、桑が植えられあんずが激減しました。昭和に入り、海外から低価格の繭が輸入され、生糸価格の低迷などから養蚕業が衰退し桑が切られました。そこで、栽培期間の管理時間が短いことや、県内外に競争相手が少なかったことから、再びあんずが見直され、栽培が増え、現在に至っています。

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